涙、涙の〝お別れの日〟
亡父 哲司儀 十一月二十六日、永眠いたしました。葬儀に際しましては、御多忙中にもかかわらず御会葬いただき、御鄭重なる御香典を賜り、誠に有難く御礼申し上げます
「二輪草 永き別れに たへて咲く」
約二年にわたる闘病中に、故人が趣味の俳句を書き連ねていた雑記帳の最後に、こんな辞世の一句が残されていました
七十七年の生涯、そして全力で駆け抜けた四十年を超える政治家人生で、故人が賜りました格別の御懇情に対しましても、ここに併せて厚く御礼申し上げます
早速拝眉の上、ご挨拶申し上げるのが本意でありますが、略儀ながら書中をもって御礼申し上げます
平成二十八年十一月三十日
喪主 大石健司
他 外親戚一同
朝の出棺の際には、本当の大勢の地元町内会のみなさんにお見送りいただきました。晩年はいつも、「オレは町長から県議になって以降、いろんな職務や仕事に追われ、自分の足元の地域のみなさんとの交流や対話を疎かにしてしまっていた。後悔先に立たず! お前は、自分を支えてくれる地元の方々への感謝の気持ちを忘れるなよ!!」と話していた父でしたが…
街のため、町のため、そして榛南のため、県のため…必死に働いてきた40余年の努力を「近所のみなさんはしっかり理解し、温かく見守っていてくださったんだなあ…」と胸が詰まりました。
感慨に浸りながら出発し全町内を巡った後、父が旧榛原町長時代に建てた「榛原町役場(現牧之原市役所榛原庁舎)」に向かいました。するとどうでしょう??? 役場の玄関の前には、平日の朝にもかかわらず30人ほどの職員が整列して、私たちの乗った霊柩車の到着を手を合わせて待っていてくれたのです?? うれしくて、うれしくて、うれしくて、うれしくて…遺影を抱いたまま助手席から飛び出して、みなさんにお礼のご挨拶をさせていただきました。
続いて、やはり榛原町長時代に完成させた「榛原総合運動公園 ぐりんぱる」に行きました。本人の揮毫(キゴウ)した石碑の脇を通り、坂を上り駐車場を1周しました。スポーツのグラウンドであるぐりんぱるに向かう行き止まりの急な坂を霊柩車と葬儀用のマイクロバスが上り下りのは、オープン以来初めてのことでした。ここでも、事務所からかつて父が会長を務めた体育協会の職員のみなさんが、お出ましになって手を合わせてくださいました。
最後に、父が政治家としての情熱の大部分を注いできた「富士山静岡空港」に行きました。ほぼ満員の大駐車場。。今や地方空港としては全国最多の国際線乗降客でごった返すターミナル前を通りすぎる時、猛烈な建設反対運動に対峙して…常に空港の必要性、将来性を訴え続けていた働き盛りのころの顔の遺影写真が、ほほ笑んだように見えました。
葬儀での盟友・杉山盛雄元幹事長、後援会会長の加藤隆氏、西原市長…そして、大哲会の杉山直己会長の弔辞。。そして、空港問題でずっと苦楽を共にした石川嘉延前知事を始めとする実に130通を超える弔電のすべてが、私の涙腺を崩壊させました。
みなさま。。本当にありがとうござました!!
最後に、ただでさえ憔悴しきっている私に、〝トドメの一撃〟となる感動を与えてくださった父の元部下のHさんのブログの名文をご紹介します。本当は実名を挙げてリンク先を添付したいのですが…普段はご自身の身の回りのきわめてプライベートなお話をアップしれているHさんは、そんなことは、絶対に望まないと思いますので(笑)…遠慮しました。
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昨夜は通夜。
私の知る限り、こんなに葬儀場を入りきれないほどの参列者で埋め尽くした通夜もない。
また、今まで榛原町長時代にお世話になった職員という職員が、会場のいたるところで別れを惜しんでいた。
それほど、職員から親しまれ、また信頼を得ていた証。
単に有能な首長だけではなく、職員から親しまれる人望の厚いトップであった。
助役時代には、職員と町の駅伝大会に、また町長時代も、職員と得意のソフトボールで大会に出るなど、市政をリードするとともに、公私にわたり職員と一緒に苦楽を共にした。
時には熱く、また時には感傷的に。
こんな首長が今の時代にいるだろうか!?
合理的でありながら泥臭い、時には精神論を口にする首長は、今の時代というよりは一昔前のリーダーといわれるかもしれない。
しかし、こんな殺伐とした社会、経済、自治だからこそ、ウェットな政治感覚が時と場合に必要に感じる。
幸運にも、そんな一面を持っている今のトップに続けて仕えている自分の身に感謝である。
さあ今日は午後告別式。
どうも、逝く間際に自分の葬儀はこうしろとメモを長男に手渡した、セルフプロデュースの告別式のようだ。
病魔と最後まで戦い続けたその最後の最後の意識の中で、自分の引き際も考えていたとは・・・。
やはり尊敬に値する恩人であった。
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Hさん!! ありがとうございました!!