恩師の死によせて
また1人。。私の人生でかけがえのない大切な方を失いました。元榛原高校剣道部顧問の齋藤正衛先生ががんのため昨日26日、細江のご自宅でお亡くなりになりました。75歳でした。私にとって齋藤先生は〝恩師〟という一言ではとても表わせないほど、お世話になりました。先生のお教えなくしては、今の私はありません。
齋藤先生は1969年(昭44)に28歳で榛原高校に赴任されて以来、その卓越した指導力と人徳で剣道部を率いて、幕末から剣道が盛んだった榛南地域の名門に〝黄金時代〟を築いてくださいました。1989年(平元)までの20年間で、お隣のライバル相良高校も含め群雄割拠していた静岡県の剣道界で、地方の県立高校の名前を全国に轟かせ…男子団体を4回、女子団体を5回、個人に至っては男女合わせて16人も、全国総体に導いた名将です。ちなみに先生の在任時は県4強まで出場できる東海総体に、榛高の男子団体は11回、女子は12回も出場していて…当時の剣道部員は先輩や周囲から「東海までは出場して当たり前!」と言われる大変な時代でした。
私はやんちゃ坊主を極めていた小学2年の時に、父に半ば強引に剣道場に連れていかれ…やはり齋藤先生が代表を務めていた榛原少年剣道クラブに入団し、そこから多感な11年間、先生の指導と薫陶を受けました。。現代では、サッカーやバスケットなどでよく見られるジュニア世代からの一貫指導を昭和40年代に、公立高校の1教諭がプライベートの時間もすべて剣道に注ぎ込み、ずっと実践していたのです。
齋藤先生の稽古や説教はとても厳しく、つらく、長いので、当時の少年少女剣士は、みんな最初は先生を嫌っていました!(笑) しかし、先生の熱い指導の下で、それぞれが確実に成長し、強くなっていくと同時に、誰もが剣の道の魅力に取りつかれ、剣道が大好きになっていくのでした。
小学生時代から、誰よりも怒られ、可愛がられ、期待もされていた私ですが…今でもすぐに顔を出すオッチョコチョイの性格と精神的な甘さから、大事な試合ではことごとく先生の期待を裏切り続けました。2年連続の全国出場がかかっていた3年時の県大会では、負けることの許されない、負けるはずのなかった大将戦で私が負けて…先生と全部員を失望の底に突き落としました。。
なのに私は翌日の個人戦では、あっさり勝ち上がって全国総体の出場権を獲得!! 当時は「団体優勝校の選手は個人戦は辞退」というおかしなルールだったため…チームメートからは「ケンジイは、個人で全国に出たくて、団体では負けただら?」と散々からかわれましたが…この時だけは、齋藤先生は「気持ちを切り替えて、よく頑張った!」と褒めてくださったような記憶があります。
最大の目標だった団体での全国出場を逃した悔しさと不完全燃焼さから私は同級生でただ1人、高3の夏休み以降も剣道を続け、秋の国体出場を目指しました。。そして迎えた県予選。。下級生ばっかりの大会で優勝を確信していた私でしたが…ここでも、油断とポカが出て、確か2回戦であっさり負けてしまいました。。すると齋藤先生が、真っ赤な顔で「バカ野郎! 何やってんだ!!! お前は今すぐ歩いて帰れ!!」。
勝ち残っている後輩たちの応援も許されず、早々にジャージに着替えた私は、静岡市から静波の自宅まで40㌔の道のりを徒歩で帰ってきたのでした。国道のトンネルの中は危険で歩けませんので、150号線の旧道の大崩海岸の険しい峠をとぼとぼと登っていると、ちょうどタイミングよく大会を終えた後輩たちの乗ったバスが通りかかりました。。20㍍先に停止したバスから、2年生の次期エースが降りて私の方に走ってきました。
「ケンジ先輩! どうします? ヤツ(=生徒たちだけの先生の俗称ww)が呼んでますけど…」
「いや、会いたくないから。。気にしないで行ってくれ!!」
「わかりました! じゃあ、お気をつけて!!」
「えっ!? ちょっと待って―!!」
もちろん、携帯なんかない時代。。あっという間にマイクロバスは、くねくね道の先に消えていき…私は1人、秋の山道に置き去りにされました。ポケットに小銭すら入っていなかった私は、そこから必死に歩いて歩いて夕方に、へろへろになって自宅までたどり着きました。
ちなみに…榛高剣道部の115年の歴史上、「試合に負けて、静岡から歩いて帰った部員は1人しかいない」ということで、私は〝伝説の男〟となり かなり長い間、後輩たちの間で語り継がれていたことを数年前に知りました!(笑)
話がどんどん膨れていくわけですが(笑)…これだけ齋藤先生にお世話になりながら、私は翌春、なんとか自力で大学に合格すると、あっさり剣道を辞めてしまいました。。剣道少年なら誰もが憧れる大学の剣道部で「バンカラな学生生活を送ろうか?」「就職にも困らないし…」と、かなり悩みましたが、いわゆる剣道に対する「燃え尽き症候群」とともに「せっかく東京まで来たんだから、もっと他の世界も知りたい!!」という思いが勝りました。またしても、先生の期待を裏切ったわけです。
実際、好き勝手にいろんな世界を渡り歩き、休みに帰郷して母校の稽古に顔を出すこともせずに…大学を6年もかけて卒業した私は東京で就職し、外国人と結婚して横浜に住み始めました。剣道と接する機会もなく、2人の息子もまったく興味を示さずに…。先生とのご縁は切れてしまったかと思いました。。ところが、私が不惑を過ぎて高校時代の先生と同じ年代となったころ、スポーツ紙の静岡支局に異動となり、高校の剣道や柔道の取材で当時藤枝の県武道館の館長を務めていた先生と再会したのです。「おう! 久しぶりだな! いつも新聞読んでるよ! 頑張ってるな!」と矢継ぎ早に、すっかり優しくなった顔で励ましてくださいました。
その後、私は一大決心をして故郷に帰り…頻繁ではありませんが、先生との交流が復活しました。昨年8月末に、私が31年ぶりに剣道をしたご子息の篤さんの道場でも、昔と変わらぬ凛々しい剣道着姿で今の剣道界やこの地域の課題についてのご意見をいただきました。。5年前には前立腺がんの手術を受けたとは聞いていましたが、とってもお元気そうに見えました。しかし、実際はすでにそのころ、末期の胃ガンが見つかっていて…医師から「余命半年」と宣告されていたということを2人の御子息からうかがいました。
11月末、2つ年上で親交の深かった私の父の葬儀後には、落ち込む私の両肩をバシッと両手で強く叩いて「頑張れよ!!期待してるぞ!」と励ましてくださいました! それが生前にお会いした最後の姿となってしまいました。
2月議会開会日の本日、午後4時前にやっとご自宅にお悔やみに伺うと、すぐ後でちょうど私が1年の時の2、3年生の先輩方が一緒に弔問に訪れました。。齋藤先生は20年間も監督だったのに、なぜか私の直近の先輩6人だけがその場にいるという不思議な偶然に驚きました。みんな泣いていました。眠っているような穏やかな顔で、横たわっている齋藤先生が、今にも「どうだ? 驚いたろ?」と笑いながら、起き上がってきそうな気がしました。
齋藤先生! 長い間お疲れさまでした。本当にありがとうございました。。どうか、天国で待っている父と酒を酌み交わしながら、昔の剣道同様にハラハラ、ドキドキ…そして最後はガッカリ? の私の生き様を見守っていてください!!